戦国武士も癒された幻の「鹿の湯」
レッツ!エンジョイ!!
レガ(歴史好きガール)のみーぽんです。
前回は、東京都日の出町に誕生した「鹿野(ろくや)大仏」についてご紹介しました。
前回の記事
さて今回は、鹿野大仏に行ったら見逃せない戦国スポットのご紹介です!
そのスポットは、鹿野大仏西参道入口の右側にあります。
参道入口から右の方に目をやると・・・
祠が見えます!
残念ながら私が訪れた時には
鹿野大仏周辺の工事がまだ終わっていなかったためか、すぐ側まで行くことは叶いませんでした。
さて、祠の前にある大きな樫の木の根元にご注目ください。
泉でしょうか・・・
立札を拡大撮影してみると
日の出町指定史跡「鹿の湯(しかのゆ)」とあります。
多摩七湯の一つに数えられ・・・
どうやら温泉の跡地のようですね!
祠には「鹿の湯大権現」が祀られているそうです。
戦国時代に発見された温泉
立札には、“江戸期は盛んに利用された”とありますが、
この「鹿の湯」の歴史をひも解いていくと、なんと!戦国時代に遡るんです!!
江戸時代後期に刊行された『新編武蔵国風土記稿』の記述を要約すると・・・
天文6年(1537年)の秋、
宝光寺を開いた文済(もんさい)禅師がこの山中に草庵をかまえていたところ
足に疵をおった一頭の鹿が草庵の前を往復していた。その鹿は次の日も次の日もやって来た。不思議に思い後をつけてみると、鹿はこんこんと湧き出る泉に足を浸していた。
疵は日ごとに癒されていった。
それを見た禅師が、刀傷のある人や病気の人を入浴させてみたところ効き目があった。文済禅師はこの泉を「鹿の湯」と名付け、鹿湯権現を祀った。
豊臣秀吉が天文6年(1537年)生まれなので、ちょうど同じ時期に発見された温泉ということですね!
ちなみに織田信長は天文3年生まれです。
それにしても鹿の能力おそるべし!
足の傷に効果があることをちゃんと分かっていたんですね~
そうそう!
「鹿野(ろくや)大仏」の“鹿野”は、この話が由来となっているそうです。
慈根寺城とは、どこの城?
さらに伝承には続きがあります・・・
天正18年(1590年)、慈根寺(じごじ)城攻めの時
北国加州勢の内、長井平左衛門という武士が戦でおった手傷をこの薬湯で癒した。
天正18年(1590年)といえば、豊臣秀吉による小田原北条攻め。
温泉の場所から考えると「慈根寺城」は八王子城の“支城”か何かかな?
と思いそうになるのですが、
八王子権現を城の鎮守としたことから「八王子城」と号した。
また麓の地名を神宮寺村とも、慈根寺村ともいい、
そこから、神宮寺の城とも、慈根寺の城ともいわれた。
慈根寺城とは八王子城のこと!
確かに八王子攻めは、加州=加賀の前田家が行っています。
※神宮寺と慈根寺、どちらも「じごじ」と読むようです。
地元の人からすれば、昔からこの土地の名は〝じごじ〟であり
急に「八王子城」とか言われてもなぁ~
という感じでしょうか。面白いですね!
今でもバス停の名前として「慈根寺」が残っています。
八王子(慈根寺)城攻防の図 『武蔵名勝図会』より
温泉の話に戻りますが、鹿の湯は刀傷にも良いとのことなので
前田家の長井平左衛門さんを始め、多くの手負いの人達が治療を目的に訪れたのが想像できます。
それだけ「鹿の湯」の評判も広まっていた!ということですね。
ちなみに!
永禄12年(1569年)の武田軍による滝山城攻めの際にも
重臣の小山田信茂がこのお湯で傷を癒したということですよ。
江戸時代の鹿の湯
さて、戦国時代に発見されたこの温泉は
江戸時代になっても評判で
寛文貞享の頃(1661年~1688年)にはかなりの賑わいだったようです。
病気や怪我が癒えたのでしょうか?
この頃(貞享3年)、旗本の溝口信勝が石灯籠を寄進したとの記録も残っています。
彼は従五位下 豊前守に任ぜられている、なかなかの大物です。
ところが、理由はよく分かりませんが、その後「鹿の湯」は衰退してしまいます。
享和年間(1801年~1804年)に復活するものの
地元の人が客に害される事件が起こったため、文化11年(1814年)に入浴が禁止されてしまいました。
宝光寺と鹿の湯 『武蔵名勝図会』より
上の挿絵は入浴が禁止される文化11年(1814年)以前の「鹿の湯」と思われます。
『武蔵名勝図会』によると、温泉の泉質は以下のとおりです。
硫黄の気は少くして水色白み温気あり
居風呂に沸し浴すれば重瘡打撲打傷湯瘡の類に効験ありといふ
居風呂(すえふろ)というのは、
湯桶の下が釜戸になっていて沸して入る形式のお風呂。
「鹿の湯」は、現地の湯屋で入浴する以外にも、源泉を樽に入れて運び出したりもしていたようです。
“沸し”とあるので
源泉はほんのり温かい程度で、浸かるには冷たかったということが想像できますね!
確かに、湯気が立つくらい温かいのなら
以船文済禅師も鹿に教えられずとも、湯気で源泉を容易に発見出来そうです。
居風呂(イメージ)薪をくべて沸しています。
また浴室の入口には「鹿湯」の扁額がかけられていたそうです。
「鹿湯」の扁額 『武蔵名勝図会』より江戸時代初期に中国からやってきた禅僧、東皐心越(とうこうしんえつ)の筆。
またもや復活!
文化11年(1814年)に入浴が禁止されてしまった「鹿の湯」ですが、
天保年間(1831年~1845年)に宝光寺二十四世・保山住職によって再興。
浴室や旅館が営まれたのだとか。
ちょうどこの頃の「鹿の湯」が分かる史料として、
山田早苗(やまだのさなえ)という狂歌師が残した『玉川泝源日記』があります。
これによると天保13年(1842年)、
今熊神社(東京都八王子市)や阿伎留神社(東京都あきる野市)を参詣した帰りに
噂を聞きつけて「鹿の湯」を訪れています。
山田早苗曰く
湧泉は元よりぬるしとて、
江戸の銭湯の如くざくろ口といふをつけて、くぐり入る内に湯の箱あり。汲み入れて焚きたり。
予もあびけるに、ともに此わたりの者とみゆるが追々に来たりてあびつ。
そこに、二階づくりの客人家とみゆるがあり。
やっぱり源泉はぬるいようですね!
江戸の銭湯の「ざくろ口」というのはこのようなものです。
柘榴口(ざくろぐち)銭湯によって装飾が異なっていました。赤ちゃんを抱えた人が潜ろうとしているのが「ざくろ口」で、
手前には洗い場が、奥には浴槽があります。
「ざくろ口」は湯気が逃げたり、お湯が冷めるのを防ぐための工夫だそうです。
浴槽側からみた柘榴口
柘榴口の下から洗い場の桶が覗いています。また江戸の銭湯には男性のみ利用できる二階があり、
湯上りにお茶を飲んだり仲間と囲碁や将棋を楽しんだり出来る場所でした。
鹿の湯の二階も、湯上りにのんびり出来る場所だったのかもしれません。
江戸の銭湯二階
最後に
撮影年は定かではありませんが、大正3年(1914年)刊行の書籍に掲載された古写真をどうぞ。
鹿の湯 古写真平井村は、現在の東京都日の出町平井付近。タイトルに“冷泉”とあります。
くどいようですが、ここでも源泉の温度は低かったことがわかりますね!
写真が不鮮明でよく分かりませんが、中央の大きな建物は湯屋でしょうか?
明治2年(1869年)~明治11年(1878年)まで、
引田村(現在のあきるの市)の健蔵という人物が
宝光寺から境内の湯治場を借り湯屋を営業している文献が残っているので、
この写真がその頃の様子に近そうです。
しかし今はなき「鹿の湯」・・・
存続できなくなった理由はなんだったのでしょう?
資金難だったのか、枯れてしまったのか。
いろいろ考えてしまいますが、
戦国武将の傷も癒したその出湯を、出来ることなら楽しんでみたかったですね!
今となっては幻の湯です。
鹿の湯 情報
塩澤山宝光寺 鹿の湯跡(日の出町指定旧跡)
旧跡指定日:昭和53年9月1日
多摩七湯の一つ
所在地:〒198-0182 東京都西多摩郡日の出町平井3392
宝光寺ホームページ:https://entakuzan-houkouji.or.jp/
アクセス:
【電車】JR五日市線または武蔵引田駅 徒歩25分
【電車&バス】JR福生駅、JR秋川駅、JR武蔵五日市駅よりバス乗車
「塩沢秋川霊園バス停」 下車、バス停より徒歩5分
拝観料:無料
拝観時間:午前9時~午後4時30分
御朱印(秋川霊園管理事務所にて):300円
駐車料金(約100台):自動車 500円、バス 1000円、オートバイ 200円
駐車場への入場は午後4時15分まで
トイレ:駐車場そばに有り
その他:補助犬を除き、ペット同伴での参拝はNG
※情報は2018年6月現在のものです。